缶詰は比較的腐敗しやすい海産物を長く保存することができ、災害時の備蓄食としても大きな需要があります。一方、国内の魚食文化が縮小する近年において、サバ缶ブームに代表されるように、便利で美味しい水産缶詰は、備蓄食・保存食の枠を超えて、魚食の普及・復活の光明としても注目されています。質・量ともに豊かな海産物があがる志摩半島においても、自然と缶詰産業が営まれ、現代の教育の場においてもその伝統は受け継がれています。
本展は志摩半島や全国的な缶詰製造の歴史と現状、当地域の水産高校における缶詰製造などへの取り組みについても紹介しつつ、日本全国のご当地缶詰や海外の珍しい缶詰なども多数展示します。海産物の魅力を再発見し、海洋資源の新たな利用、子どもたちへの海洋教育などについても考える機会とすべく企画しました。
なお内容については、今後の新型コロナウイルスの流行状況を鑑みたうえで、変更となる場合があります。
1章 缶詰誕生の前夜 ~保存でながく魚食を楽しむ~
日本における缶詰製造は19世紀後半以降の比較的新しい保存技術であり、それ以前に日本では古来、多様で時に独自の保存方法を発達させてきました。本章では缶詰誕生の前段階として、干す・煮る(干物、煮干し)、燻す(鰹節)、しぐれ煮(アサリなど)・塩蔵・発酵(鮓)などによる、多彩な海産物の保存・加工方法について紹介します
2章 缶詰の歴史と技術 ~三重県の缶詰産業~
日本における缶詰製造は、1871年に長崎県においてイワシの油漬が試作されたことに始まるとされ、その後海外への輸出用や戦時での軍備食として重宝されるようになり、日本の豊かな海産物を世界に知らしめました。豊饒の海に面する三重県においても同様に、古くから各地で水産缶詰製造が盛んになり、東洋水産株式会社など当時日本を代表する水産会社も誕生しました。同社は海の博物館初代館長の二代・石原円吉の父である初代・石原円吉が創業し、現在の東洋製罐株式会社の創業者、高碕達之助氏を技師として招きました。
ここでは、水産缶詰産業の発達史を振り返ることにより、当地域の経済や日本の食を支えてきた水産業、海洋資源の重要性を理解できるようにします。
3章 現代の缶詰事情と魚食のこれから
本章では、日本全国のご当地水産缶詰や、世界各国で販売されている水産缶詰を一堂に会することで、各地の魚食文化や、その背景にある漁撈習俗についても興味をもっていただけるような展示にします。また当地域で水産加工品の生産について学び、製造もしている三重県立水産高校(志摩市)の取り組みについても紹介します。
主催:鳥羽市立海の博物館
協力:船の科学館「海の学びミュージアムサポート」、三重県水産高校
「船霊様(ふなだまさま)は、漁師の身を守る船の神様。嵐の前触れや危険な場所に近づくと「船霊様と海へのいのり「チチチ・・・」などと鳴いて危険を知らせるともいわれています。神秘と魅惑に満ちた「船霊様」の博物館資料約20点とともに、斎藤緑雨文化賞ドキュメント賞受賞「いのちをつなぐ海のものがたり」の著者、矢田勝美の絵本のための船霊様原画や「いのり」をテーマに描いた平面作品を展示します。
広大な海には気候や地形、深度などに応じて多様な生態系が広がり、同じ仲間の生きものであっても大きさや形状はおどろくほど千差万別です。
また豊かな海、海産物に恵まれた三重県では、目的とする獲物によって多彩な漁法・漁具が発達してきました。例えば大きな獲物や船団で大量に漁獲することを目的とする場合は基本的に大きな漁具、小さな生物や少量の漁獲であれば小さなものが使われます。形状が類似した道具であっても、往々にしてサイズには大きな違いがあります。
本展では、海の生きものや漁具の大きなものと小さなもの(または一般的なもの)を、模型や標本などを使い対比的に見せることにより、海の生物の多様性や、鳥羽の漁業の歴史、道具に様々な工夫を施してきた漁師の知恵などについて学んでいただくことができます。
昭和46年海の博物館開館して以降、多くの民俗資料の収集とともに、記録写真も残してきました。しかし当時のフィルムは近年まで、紙焼きまたはネガ、ポジで保存されてきました。今後どんどん劣化していくことから、平成30年3月に三重大学海女研究センターが設立され、事業の一つとして海女のデジタルデータ化がスタートしました。その作業も一年以上経ち約15,000点がデジタルデータ化されました。 その甦った昭和の海女漁の様子や海女の祭り、普段の何気ない生活の記録写真をほんの一部ですが、みなさまに見ていただきたいと思います。
平成2(1990)年4月15日、海の博物館は坂手郷土資料保存会から1700点余りの漁撈用具などの寄贈をうけました。坂手郷土資料保存会は、昭和51年1月1日から3日にかけて「坂手の漁具展」を開催、その開催のあいさつ文には「手作りの漁具やそれを作る道具を見ていると、坂手の一本釣の伝統を支えてきた人々の息吹きが感じられる。この漁具のひとつひとつが家族を養い、島の生活を支えてきたのである。だが、この漁具類も島から消えかかっている。ここ数年でほとんどなくなってしまうのではないだろうか。20年もすれば、どのような漁具を使って漁をしていたのか、わからなくなってしまうと思う。祖先が使ってきた漁具を、なるべく多く島に残したい。これが私たちの願いである。」とあります。
平成元年、海の博物館に新しく収蔵庫が完成したのを機に、昭和51年以降も収集を続け保存していた「坂手の漁具」を後世に残すため保存することになりました。1700点の資料は、坂手島でかつて盛んだった釣り漁に使われものが多く、他に突き漁や網漁に使われた漁具、生活の用具もあります。
海の博物館に収蔵・保管されている坂手島関係資料と昔の坂手島の風景や人々を写した古写真を展示・紹介します。坂手島の歴史やそこに暮らした人々の姿、漁具に活かされている知恵や工夫をご覧いただればと思います。
北出正之さんは、ここ10年の歳月、三重県内の祭りを撮り続けてきました。
人口の減少や高齢化など、急激に変化する地域社会の現状にあっても、幾多の祭りは住民の祈りや願いの拠りどころとして懸命に守り継がれていることを実感する一方で、社会の変化に耐えきれず、規模の縮小や簡略化に追い込まれるばかりか、存続が困難になったいくつかの祭りを目の当たりにしてきたと言われます。
今回、鳥羽市内に伝承される祭事を撮影された北出さんの躍動感あふれる写真をお楽しみください
クジラは大人にも子どもにも、広く、根強い人気があり、関心度の高い海の生きものの代表格と言っても。小型のハクジラ(イルカ)から20mを超える大型のヒゲクジラまで、美しい流線形の身体や雄大に泳ぐ姿、迫力のあるジャンプなどは人々の心をとらえてやみません。
日本内外において古くから絵画や立体造形などのモチーフになり、骨やヒゲなど身体の部位は生活用品・嗜好品がつくられるなど、様々な形で表現・利用されてきました。
本展は浮世絵をはじめとした絵画や立体造形作品、クジラをかたどった民芸品、クジラを素材とした絵本や学習書などを展示し、特にヴィジュアル的な面から、子どもたちや海外の方でも感覚的・直感的に、クジラの魅力、面白さを知り、ひいては海に対する興味を深めていただけるよう企画しました。
4月にリニューアルオープンした東京都立第五福竜丸展示館より、第五福竜丸を紹介した展示パネル、当時使われていたガイガーカウンターや死の灰をお借りし展示します。また当館が所蔵する元乗組員大石又七氏が制作した第五福竜丸の模型や海図も合わせて紹介します。
【ビキニ事件・第五福竜丸のひばく】
第五福竜丸は1954年3月1日、アメリカがマーシャル諸島ビキニ環礁でおこなった水爆実験に遭遇、放射性降下物「死の灰」をあびて被ばくしました。乗組員23人は急性放射線障害で入院、第五福竜丸のマグロは放射能に汚染されていたため廃棄されましたが、南の海から戻るたくさんの漁船からも汚染マグロがみつかり大騒ぎとなりました。アメリカはこのとき6回の水爆実験をおこないましたが、5月半ばからは全国各地に放射能で汚染された雨がふり実験中止、原水爆反対の声がひろがりました。被ばくから半年後には、無線長の久保山愛吉さんが40歳で亡くなりました。
貝の華、志摩地方は真珠発祥の地、真珠の産地です。その真珠を生み出すアコヤ貝の貝殻は、美しい真珠層で形成されていることから、貝細工の主要な素材として使われてきました。かつては志摩にもたくさんの貝細工工房がありましたが、職人の高齢化に伴い、今では境一久さんが志摩で唯一の貝細工職人となりました。G7伊勢志摩サミットにおいて、志摩市からG7参加加盟国首脳に対し、境氏制作の貝細工美術額「鶴二羽亀二匹」と本真珠付真珠箸が贈呈され喜ばれたそうです。古来よりある螺鈿とは違う技術で、真珠層を立体的に表現する貝細工の世界をお楽しみいただければと思います。
伊勢湾口に浮かぶ周囲3.9㎞、面積0.76km2の小さな島“神島”。三重県鳥羽市に属しますが、地理的には愛知県の渥美半島に近く、人口は現在350人ほどです。三島由紀夫の代表作「潮騒」の舞台(小説内では歌島)としても知られる風光明媚な離島で、豊かな自然、人間同士の繋がり、恩恵をもたらしてくれる海への感謝を示す儀礼・祭礼が、長い歴史のなかで受け継がれてきました。一方で、多分に漏れず漁業をはじめとした産業の衰退、人口の減少・高齢化などの課題も多く、存続の危機にある祭礼もあります。
本展は、鳥羽市の小さな離島をフィールドに、むかしから変わらないもの、変わってしまったもの、失われつつあるものを多くの資料から概観することによって、日本人古来の自然と共に生きる暮らし方を再認識するとともに、今後の離島振興策を考える機会とするべく、企画しました。
三重県に残る消えつつあるとはいえ、まだ三重の海岸線には、漁や港に関連した海の祭りが多く残り、時季々々に行事が行われています。三重県伊勢市出身の写真家阪本博文氏が撮りつづけている漁村の写真から、今年度3回にわたり、鳥羽・志摩の小さな漁村で海女さんや漁師さんが格闘する漁の様子を紹介します。
西洋では”悪魔のサカナ”として嫌われることも多いタコですが、日本においては古くから食されてきた、食卓でもなじみの深い生きものです。高タンパク低カロリーで、肝機能の維持に効果があるとされるタウリンや、免疫力を高める亜鉛などを含、人の体を元気にしてくれます。
食べてうれしいだけでなく、全国的にタコ薬師やタコ神、タコ地蔵などが存在し、タコを信仰し、願掛けをする風習が、現在も根強く残っています。さらに近年では、”置くとパス”(=オクトパス=受験の願掛け)や”多幸”(=開運祈願)などのキーワードと、ユーモラスな形態も相まって、モニュメントやキャラクターデザインなど地域振興に利用されており、タコ信仰・祈願および活用は拡大し続けています。
不思議な形態から恐れ、訝しがられながらも信仰と関心を集め続ける、ミステリアスな海の生きもの、タコに対する日本人の視線を多面的にとらえることによって、人と海の生物との密接なかかわりを感じ取っていただくことができるよう本展を企画しました。
大阪出身、現在石垣島に暮らす長嶋祐成氏による三重県の魚の原画展を開催します。自身を「魚譜画家」と称し、魚や水生生物を描いています。幼いころより、魚の姿に魅せられ、魚類の水の中での身のこなしや目や鱗のきらめき、釣り上げられたときの躍動感、感動をそのまま描いています。
今回の展示では、三重県でなじみ深く、生活のなかに密接した魚たちの姿を紹介します。
長嶋祐成プロフィール
1983年大阪生まれ。京都大学総合人間学部卒。現代思想を専攻。
卒業後、思想と社会の接点を模索して服飾専門学校に進学、クリエイティブを学ぶ。
同卒業後はアーティストブランドに勤務したのち、広告・コミュニケーションの業界へ転職。7年間ディレクターを勤める。その傍らおこなっていた画業を2016年4月からは本業とし、石垣島へ移住。
今回はクリスティアン氏が鳥羽で調査・撮影した作品も多数展示します。海の豊かさを測る物差しは様々ですが、多彩で量も豊富な(赤潮やアオコが大発生するようでは困りますが)プランクトンが、食物連鎖の巨大なピラミッドを底辺でどっしりと支え、豊かな鳥羽の海の生態系や海産物、魚食を維持してくれています。人間との関わりで言えば、植物プランクトンは光合成により、大量の二酸化炭素を分解して酸素を放出し、海底へ沈んだ死骸は、長い時間を経て石油や天然ガスへと姿を変えます。わたしたちの日常生活は基底的に、プランクトンの助けを受けているわけです。本展で海の神秘に満ち溢れた小さな生命の姿をご覧いただき、鳥羽の海に暮らす生物の多様性や進化、人と海とのつながり、海洋環境などに関心を持つきっかけになれば幸いです。
昨今回釜山市にある海洋自然史博物館からの呼びかけで、写真の交換展示が実現しました。釜山博は、海洋自然史に関わる資料を収集し、保存し、調査研究し、また破壊されていく海洋環境や生物多様性の重要性についても発信する博物館で、海の博物館の考え方と非常によく似ています。今回貴重なお写真28枚をお借りし、韓国最長の河川洛東江と朝鮮海峡交わる漁業盛んな釜山市の1920年代から1970年代の漁村の姿を紹介します。また釜山博でも当館が所蔵する昭和50年代の大漁写真や漁村の子どもたちの写真を2/6~4/8まで展示しています。
釜山は、朝鮮半島の南東を流れる洛東江が海に注ぐ河口の港町です。人的交流や物流の拠点であり、このような環境の中で街は大きくなっていきました。洛東江流域の人々は、ここに根を張り、たくましく生き続けてきました。この展示では、洛東江に住む人たちの人生の物語を記録した所蔵写真を紹介します。写真は洛東江を背景とする漁村の姿が多く、1920年代から1970年代にわたるものが主です。渡し船を利用して様々な物資や人を運ぶ姿、亀浦の近くでシジミ姿がみられます。それほど豊ではない資源を利用しての生活でも、漁村民たちの顔には余裕が感じられます。これは、日本の漁村民の姿にも共通しているのではないでしょうか。彼らは自分たちの生業にプライドと情熱も持って日々を過ごしているように思えます。急迫な現代を生きる私たちに、過去の韓日漁村民たちの生き方は、また違う教訓と示唆を与えてくれます。
釜山市海洋自然史博物館より。
魚の骨は食べるときに邪魔だからきらいだ、なんて思っている人はいませんか?
骨は体を支えるとても重要な器官であり、それを調べることで、海の生きものたちの暮らし方など、たくさんのことがわかります。また日本人はむかしから、魚の骨まで無駄なく、上手に使って料理を作り、さらにお守りとして身に付け、生活用品の材料としても利用してきました。
実はとても身近な骨。みなさんも骨まで愛して❤海の生きものをもっと好きになってください
海女漁はながきにわたり日本で受け継がれてきた、伝統的な素潜り漁です。古代から中世にかけての文学作品や、近世に流行した浮世絵では数多く題材となり、近代以降は写真・映像等の被写体として、注目を集め続けてきました。それはいつの時代も、各分野のアーティストたちが、好んで海女を表現してきたからにほかなりません。
この度、「鳥羽・志摩の海女漁の技術」が国の重要無形民俗文化財に指定されたことを記念し、伊勢志摩地域で活躍する作家による特別展を開催します。しなやかさ、力強さ、素朴さ、朗らかさなど、各作家が様々なカタチで具現化した、海女の多様な魅力、価値を多くの方に感じ取っていただくことにより、海女文化への理解を深め、後世への継承の一助となれば幸いです。
吉田賢治氏(銅版画家)、山川芳洋氏(彫刻家)、阪本博文氏(写真家)
ボラはかつて、三重県でもアジやサバの倍以上もとられていた沿岸漁業の主役であり、旬の季節には庶民の食卓をにぎわせる大衆魚でした。また「名吉(なよし)」とも呼ばれ、家の慶事や地域の祭礼でも珍重されるおめでたい魚です。しかし、漁師の減少、漁業形態・流通環境の変化とともに次第にボラ漁は縮小し、高度成長期の海洋汚染により、海底の泥からエサを探すボラは“油臭い魚”として誤解を受け、決定的な打撃を受けます。同じようにして、魚食文化の衰退とともに食卓から姿を消した魚もたくさんいます。
本展では、漁民の生活をながらく支えてきたボラ漁への理解を深めるとともに、ボラという魚のフィルターを通じて見えてくる、海を取り巻く様々な問題・課題を知っていただきたいと思います。