特別展示室
2023.7.8 (土) ~ 8.31 (木)
昨年(2022年)5月、鳥羽市の離島・菅島にある「菅島灯台」が国の文化審議会から重要文化財(建設物)に指定されました。また菅島灯台は、明治6(1873)年7月1日に完成、レンガ造りの日本最古の灯台として設立150周年を迎えます。これらを記念して、海の博物館では鳥羽海上保安部と共催で記念展を開催します。
菅島は、周囲約12キロで東南は太平洋に面しており、北方の答志島、西方の坂手島とで鳥羽湾を形成しています。この付近周辺には数多くの岩礁があり、古くから船人を悩ませ、幾多の人命が海の藻屑と消え、船乗りたちは「鬼ケ崎」と呼んで恐れていたといいます。
江戸幕府が成立して、人口が年々増加し、江戸では食糧が不足し始めます。そこで幕府は海路はるばる奥州より米を船で運ぼうと、寛文12(1672)年、河村瑞賢の説く東北の酒田港より日本海を回って下関を経て、大阪を経由する西まわり航路を整備します。ただこの航路のうち、菅島付近で難破する船が続出、寛文13(1673)年、幕府は、菅島に「かがり火小屋」を設けてかがり火を焚き、これを船からの目標として船の安全を守ろうと試みます。これが「菅島灯台」の始まりです。
「かがり火」は、当初は露天で火を焚いていたようですが、露天では雨が降れば火は消えてしまい、風が吹けば火災の恐れがあり、任務を全うすることが難しいため「幕府は鳥羽藩主内藤飛騨守忠政に命じて<かがり火小屋>(のちに篝火堂)を建てさせた」と伝わっています。
明治4(1871)年になると、明治政府は「篝火堂」(明治6年6月30日まで火を灯す)を廃止して、洋式の「菅島灯台」の建造することに決め、イギリスの灯台建築技術者リチャード・ヘンリー・ブライトンらを招いて、灯台建築を依頼し、日本人の大工、石工、土工、雑役夫多数とともに明治5年1月に着工、一年半後の明治6年7月1日に「菅島灯台」が完成します。
菅島灯台の建材の大半を占めるレンガは、当時日本にはなく、ブライトンは必要なレンガをイギリスから輸入するように上申するも政府は許さず、志摩地方で製造するように命令がくだります。ブライトンは、志摩地方全域にわたって調査し、その結果、志摩郡阿児町神明の土が適していることがわかり、試作に成功し、瓦屋職人山崎某にその製法を教え、レンガを製造させます。またその後渡鹿野島で良質の土が発見され、その土もレンガ造りに使用されたことがわかっています。
菅島灯台は、昭和34(1959)年に自動式に切り替えられ、無人化になります。それまで使われていた灯台守の宿舎は、昭和39(1964)年に愛知県犬山市の明治村に移築され、1968年に重要文化財に指定されました。菅島灯台は、2009年に「国の近代産業遺産」、2010年に「国の登録有形文化財」に指定されました。
今回展示する資料は「篝火堂の模型」、「篝火堂の瓦」、「菅島灯台の模型」、「菅島灯台使用の煉瓦」、「明治初期の伊勢の海の海図」など。